今の有様は「業」なのか?

久しぶりに高校生以来の友と酒を酌み交わしました。

涼しくなってくると七輪に趣を感じます。

10代の頃からの付き合いで共にいろいろな体験を共有してきた間柄ですが、四十路も半ばくらいに差し掛かり、思い出話や人生観の話に花が咲くことが増えてきたように感じます。

それぞれ家庭を持ったり責任ある立場になったりして集まることが減ってきたから尚のこと、そういう話になるのでしょう。

人生の折返し地点を迎えて

「人生100年時代」とは言いますが、実際のところ自分の力で何とかできるのは80歳あたりが限界でしょう。

それゆえか齢44を迎えた今、人生の後半戦を様々な衰えと付き合いながら暮らしていくことになります。二十歳の成人式から今日までをもう一度繰り返したら70歳近く。

そうなると以前に増して今後のことを深く考えるようになってきました。今のままで良いのか、どうしてこうなったのか…などなど。

そんな中で、久しぶりに友人宅の庭で男二人、酒を酌み交わしていたら、彼曰く、「業なんだ。」と。

聞けばその友人、運命に導かれて今に至るのですが、苦労も多いと。そんな話の中での一言でした。

僕もたくさんの紆余曲折があって今に至るのですが、その時その時の決断の結果とはいえ、昔思い描いていた自分とはずいぶんかけ離れた所に来てしまったものです。

もともと「べきべき人間」な性分があって、出来ない自分を卑下してしまいがちな僕。現状を頑張っていながらもふとパラレルワールドにいる別の自分的なものを妄想することがしばしば。

そんな時に聞いた「業」の話が妙にしっくりきました。

おわりに

なるようになった結果ですが、脳は1日に3万5千回もの決断をしていると言いますから、その膨大な決断の結果が今です。それを運命ともいうのでしょう。

それを今日どのように捉えるかでまた変わって来そうなのですが、こんな事を考えていると決まってとある共通の友人を思い出します。

与えられた環境に順応出来て無欲。まるで悟りを開いているかのような人です。上がることも無ければ下がることも無い、常にフラットな心持ちで「まぁ、なんだかんだあるけど幸せかな」とか「やっちまったものは仕方ないから」と言える。

こういう人が生き延びるんだろうなぁと。いわゆる「社会的信用がある人間(某カード会社のDMに書かれていたので引用)」になったのに猛烈な敗北感を感じてしまう自分は何がしたかったのだろう?と今なお厨二病のような自分探しをしているとかしていないとか、なんだかよく分からなくなっている次第です。