自分を知るには「好き」だけでは足りない

愛車の1980年式HONDAモトラ。とあるマンガの影響でコレを選び、今なお大事にしています。

以前、遠出した先のコーヒースタンドのマスターさんの言葉です。

「好き」は誰かの価値観を引用している場合が多い。と。

耳が痛いです。

僕がバイクに乗るきっかけと今の僕の人格形成に多大なる影響を与えたのも、あえてラシーンという古い車に乗っているのも、激レアなスニーカーを所有しているのも、いつしかブラックコーヒーばかり飲むようになってカフェ探訪しているのも、ホーム戦のたびに清水エスパルスの応援に行くのも、音楽の好みも…全て何らかの影響を受けてのことです。

例えば、昨今の空前のキャンプブームもヒロシさんや「ゆるキャン」の影響を受けて始めた人が多いことでしょう。20年前、バイクに寝袋一つ積んでテントも持たず津々浦々で野宿ツーリングしてた頃はキャンプ場なんてどこも貸し切りだったものです(テントは借りる物だった)。

自分の輪郭

普段、こんな事を考えている人はまずいないでしょう。疲れたとき、嫌なことがあったとき…なんとなく黄昏たいときにふと湧き起こってくる感情。「オレ、何やってんだろ…?」一度くらいはあったかと。

その時の感情こそが自分だけの価値観であると。

社会という人の輪の中で生きる日々は、与えられたものの中で生きる日々とも言えます。

税理士試験だって誰かが「税理士」という資格を創設したからこそ始まった仕組みです。それを審査する人やそこに商機をつかんだ予備校の掌で踊らされる受験生たちもそう。

うまくいかなかった時の残念な気持ちや屈辱といった負の感情、他にも苦手だとか嫌いだとか自分を不快にさせるそこにこそ自身の価値観がある。価値観が満たされないからストレスになっているわけです。

自分のことが知りたいのなら、好きなものを羅列するだけではなくて、嫌いとも向き合う。

そうすることで自分の価値観ひいては選ぶべき道も見えてくるのではないかなと思った次第です。