「◯◯なりに」を意識する

僕は車は20年前の、原付は40年前のものを使っています。仕事でもプライベートでも。

お客様のところに行くと綺麗にしてるねとよく言われます。

1982年式HONDAモトラ

今では何でも使い捨ての世の中で、中古でさえも綺麗なものがいっぱいあります。

まだ使えるのに飽きたら手放すというのは、仮にリサイクルに出したり、中古品として次の人の手に渡ったとしてもエコではないなぁと思います。

そもそも手放さない。直せるものは直す。ゴミを増やさない。可能な範囲で心がけています。

古い物でも古いなりに大事に扱う。そうしてる方がお財布的にもエコです。

車に限って言えば、燃費が悪い事を指摘されますが、バッテリーの廃棄だとか、ハイブリッドや電気自動車が20年乗れますかと考えたら、旧車を大事に乗り続けている方が地球には優しいかなと思います。

ヘタなりに、ダメなりに、ちゃんとやる

僕は生まれてこのかたコレといった光る才能もなく、いたって平々凡々と生きてきました。

や、むしろ平均以下のものの方が多かった。

体育は2、数学は赤点、音楽は音符が読めない、歴史と図画工作だけ10。見てくれもいまいち…。

そんな偏り過ぎた評価をされてきました(これを「個性」といいます)。

それでも、厳格な父にずっと「ダメなりにちゃんとやれ!」と毎日怒られながらやってきたものです。

結果として、上から数えた方が早い高校を出て、大学・大学院でもある程度評価され、なんやかんや紆余曲折ありまくって税理士になっているわけですが…。

簿記論地獄の18年間、たとえ不合格だったとしても「常にトップクラス」は片時も忘れず意識していました。

SNS等で税理士受験生の方の投稿を見ることがありますが、「久しぶりに法人税」「ヤル気が出ないので遊びに」といったものを見ると…やはり12月に不合格通知の投稿をされる方がほとんどです。たまの息抜きは大事ですが、久しぶりにやって合格できるほど甘い試験ではありません(中には年明けから始めて合格する人もいますが)。

僕は受験>仕事&プライベートを徹して(それでも長らくかかった)、仕事は言い訳にしませんでした。そうなる前にクビを覚悟で直談判したので。他にも、今では青臭い笑い話ですが、当時婚約していた女性にも愛想を尽かされたりもしました。それほどに「税理士になる」を第一義として、ダメなりに毎日大原に通ったものです。働く場所も時間をムダにしないよう、大原に近い場所で選びました。

たとえ才能の限界が60だったとしても、60なりに100%を出していれば、才能が100ある人が余裕かまして半分の50しか出していなかったとしたら、60-50で僕の勝ちです。

ウサギとカメの話みたいなものです。

デキる人に本気を出されたら即降参ですが、プロ野球選手の全てがイチローになれるわけないように、稀かなと。

とにかく、自分自身のことをちゃんとやる。

ブランド品を買えなくても買える範囲のもので綺麗に着こなす。

ルックスに自信を持てなくても清潔感はキープする。

カリスマ性が無くても言葉遣いや態度に気を付ける。

成績が伸び悩んでもコツコツ続ける。

こういった地道力があるか否かで未来は変わることを実際に体験しました。

今は「税理士」という立場でまたゼロからコツコツの毎日で、もちろん大変です。

受験地獄から解放されてどれほど楽になるかと思いましたが、これからは自分の力で顧客獲得して食べていかなければならないので、受験時代とは違ったプレッシャーと日々闘っています。

これもまたコツコツと。いきなり5件も10件も増えるわけありませんので(中にはポンポン顧客を掴んでくる人もいますが)。僕は時間をかけて地道にやっていく。そういうタイプなんだなと今は割り切っています。

おわりに

受験の頃は先に合格していく人を見ては自分と比べたり、仕事になれば営業成績が良い同期と比べたり、外に出れば自分より若い人が高級外車を転がしていたり、とかく人間は他と自分を比べがちです。

自分より下の人という「格下像」を作り上げて今の自分に安心したいという心理ですが、それは僕にもあります。

とはいえ、独立してみて、さらにそういう姿を見せつけられるうちに「比べても仕方ない」と思えるようになりました。

これも子供の頃によく両親から「よそはよそ、うちはうち」と言われてオモチャを買ってもらえなかった時のように、比べたところで自分がすぐさまそうなれるわけではありません。

長過ぎた簿記論地獄とチョット思ってたのと違う独立の現実。それでもこうして雇われ時代より圧倒的に楽しく暮らせているのは「常にプチ絶望感を持つ」からかなと。

ハナから期待しない。望まない。世の中こんなもんかと。そうすると肩の力が抜けます(肩を落とすのと似た感覚で)。

期待して裏切られるからイラッとするわけです。

他人は他人、自分は自分。これに尽きます。